昭和四十年十一月二十五日 夜の御理解


 本気でおかげ頂きたいと思うなら本気で信心を頂こうと云う気にならなきゃならん。誰でもおかげを頂きたいと思うけれども、本気になっておかげを頂きたいとは思わない。その証拠には本気で信心を頂こうとしない。本当のおかげが頂けると云うことは信心を頂かなければおかげは受けられませんです。
 そこでそんなら信心を頂くということとはどういう事かと、信心を頂くと云うことは私は御教えを頂くと御理解を頂くということだと思うですね。信心を頂くと云うことは御理解を頂くと云うことだと。御理解に依って神様の思いを聞かせて下さる。物の道理を解きあかして下さる。天地の法則をね、普遍である真理を追求して下さるそういう様なものがです、分からして頂く、身に付いて来ると云うことが楽しみの信心にならなければならない。
 誰でもおかげを頂きたいと思うけども、本気でおかげ頂きたい本当のおかげを頂きたいと思ってない証拠に信心を頂こうとしない。おかげばっかり頂きたいと思う。信心を頂かなきゃ駄目。
 信心を頂くと云うことは、只拝むこと、参ることだけじゃない。本気になって御教えを頂くということである。御理解を頂くと云うことである。その御理解には、御教えには何時も信心を分からせて下さろうとする神様の願いが何時の場合でもそれが感じられる。特に私は椛目の場合はですね、それは切実としてその神様が一人一人の心の上に現れて下さる。も寝とる間も神様は働きかけて下さることで、皆さんが御神夢を頂かれるのはそれなんです。
 大坪総一郎が説いただけではまあだうんとんしない。だから銘々の上に寝とるのにでも神様がお知らせを下さる。私が朝晩こうやって説かせて頂く御理解ね、これはもう必ず私が我流でお話しとるのでもなからなければ、私が思い付いて話とるのでもない。神様から頂きます事を、それを私の信心で、だからもっともっと実を云うたら深い広いものかも知れません。もっと本当いったら素晴らしい言葉で表現しなければならないかも知れません。そこはまあ、不備不完全なことでございましょうけれども、そこからです、皆さんが本気でそれでも頂こうとなされば私は椛目の御理解を本当の自分の血に肉になっていくことを楽しみに頂いていくことが出来るとこう思うです。成程、いーや私は朝晩頂よりますち、頂きよるのじゃなかて、聞きよるとじゃん。頂きよらん証拠に血にも肉にもなっていきよらんじゃないか。ひとつも越えていかんじゃないか。本当のおかげになっていかんじゃないか。聞きよるだけじゃいかん。頂かにゃいかん。云うならば、それを本当に行じなければいけん。それが頂くことだから。信心とは教えを頂くと云うことである。それが場合に依っては苦い場合もあろう、辛い場合もあろう。甘い場合も有ろうけれども、その甘い御理解だけではなくて、苦い辛いもやはり頂かして貰うて自分の信心の根肥しにしていかなければいけない。それを私は本当に何時も何時も切実に感じるんです。
 椛目の場合ですね、神様が噛んで含める様に、いわば表現して教えて下さる。
 先程、今日婦人部会でございますから御祈念をさして頂いとる半ばに今晩の婦人部会の者に聞かせておかなければならんと云うて、云うて下さったから御祈念半ばにして私は立ち上がった。そしてどういう事を頂かせるかと云うと、今丁度御祈念前に今日早めに見えられましたですもんね。久富繁雄さんが、そして今朝方から頂いたお夢をお届けなさるが、私共の信心のであるけれども、婦人部会に下さろうとは思わなかった。ところが成程婦人部会の者に下さるですたいね。奥さんの久子さんが御自分達は久富先生と二人で一生懸命道作り、道修繕をなさっておられる。勿論金光道でしょう。金光道と云う道をです、教えを頂きながら道作りを修繕を一生懸命、家内には赤紙、招集令状が来ておると云うことであったね。今云うなら椛目は非常時だと、もう老いも若きも男も女も、云うなら椛目に御神縁を頂いとる者が撃って一丸になって神様の願いの成就のことの為に一生懸命ならなければならんのであり、御造営その事を通して自分自身の信心の造営を神様は願って居られるのである。
 だから、私事なんか言うて居られない時であると、もう赤紙が来た時と同じ事。こと神様事になったらおかげ頂かにゃいけんじゃないかと。けれども、・・(途中切れ)・・・・・なかち、云うなら非国民と言われたです。信心の上での召集令状ならばですね、非国民と云う訳じゃないでしょうけれども、信心のない者と同じ事と、信心の無い、信心のない者は仕方が無い。だから神様から非国民と言われてよいなら仕方が無い。私信心頂いとっても、その非国民と云うですかね、非信奉者とでも言いましょうかね、信心はしとるけれども、非信心者と同じことと云った様な人がどの位あるか分からんと私は思うですたい。今こそ男も女も老いも若きも今こそ椛目の神様の願いの御成就のことの為に集中しなければならないことに思いを掛けなければならない。総がかりの信心がなされていかなければならないと、何故例えばそんなら久富久子さんは招集令状うけたけれども、そのびくともしなかったか。もうそげんああたんごと泣いたっちゃ仕方がなかじゃんの、来とるけん、行きなさいて云うて、かえって他の人をその勧めておったと云うこと。それはね、神様の事に打ち込ませて頂くということがどういう有難いことか、しかもその神様の事が成就になりゃ私共の御成就であると云うことを知っておられるから赤紙が来てもびくともせんのじゃなかろうかとこう思う。だからそういう思いをいよいよ垢抜けしたものにして行かなければならない。こん忙しかったつに、ああた今から又椛目行きですかと、云ったようなものが、これ先毛頭あっちゃならないて。それこそお国に捧げ出し、いわば主人であると云う様な思いなのですね、信心が為されていかなければならない。
 椛目の婦人部会と云うて集まって見えると云う方殆どが椛目の中心になる方ばっかり。だから連合いがおられるところは、それこそ撃って一丸になってからのことがでけとりますけれどもです、そんな招集令状受け取ったときの様な気持ちではまだまだないと云うことだと私は思うですね。主人が道作りなら家内は、いわば赤紙を受けた時のような気持ちでですね、こと神様の事に例えば信心が無い者ならばです、泣きの涙であろうけれどね、それこそ神様が私のような者でも御用に使うて下さると云うその喜びです、その喜びで御用がでける。そこに神の願いが成就する。神の願いが成就する時に、又私共の願いがです、それこそ夢にも思わなかった様な道がです、段々つけられていきよると云う様な風に今の久富さんのお届けから感じたんです。御祈念さして頂きよりましたら、そのこと今晩の婦人部会の為にと頂きましたから御祈念半ばにして皆さん二階から下りて参った訳なんですけども、どうぞ後から見える方に今のお夢をもう一遍検討なさって下され、本気でそうですなと本気でひとつ赤紙でも受けたような気持ちでこの非常時を乗り切らせて頂かにゃならんと云う様なですね、話合いになって参りますように、どうぞ宜しくお願い致します。